光栄山蓮照寺

日蓮宗いのちに合掌 日蓮宗ポータルサイトへ

住職のブログ

発掘調査(旧本堂下)二日目

本堂客殿再建状況

 

今日も朝から暑い。

解体作業と並行しての発掘調査二日目です。

今日は9時から昨日の学芸員の方がみえて作業開始。

わたくしはちょうど9時に稲沢で一軒お経があったので、そちらをすまして10時過ぎにお寺に戻って、調査現場に行くと、学芸員の女性の方が笑顔で「予想外のことが起きましたー!」と。なにぃ、ぇえーと思い現場へ。

 

 

昨日の井戸らしき遺構の北側を堀削したところ、石の遺物が出てきたとのこと。

学芸員さんも記録のため撮影保存しています。

 

 

 

計ってみると90cm×100cmほどの区画に石を埋めた跡がありました。宝暦年間(1750年代)当時の旧本堂を建てるときの地鎮祭のあとではないかとのこと。→この見解は後述のわたくしの見解とは違うのでまた後↓に書きました

いずれにしても自然ではこういうものにはならないのでなにがしかの意味があり、人為的にこのようなものを組んでいたことはまちがいないです。

これが出ると少し深く掘っていく必要があるらしい。

 

撮影記録後、さらに掘っていきます。先ほどの一層目の円礫を撤去し、二層目にも同様の石組みがでてきました。

 

 

 

 

さきほどの出土地点より三層目から四層目にかけてさらに石が密着した形で組んでありました。1尺くらいの深さで組んであったことになります。

 

 

 

 

当時なんのためにこのようなものを組んだのかは後の検討として、一つの記録として大切に状況を記録保存するわけです。

あとで考えると以前の建物の礎石の下に根固めとしてこの拳大の円礫(円形の石)を充填したのではないか?とも思えてきました。 そうなると今回解体した本堂なのか又はそれ以前の建物の遺構かもしれません。今回解体した本堂より以前の建物(開山の天正12年(1584年)~宝暦6年(1756年)の間にあった本堂)は今まで記録がないのでとても興味がわくところです。

以前の建物の基礎の一部であった場合、等間隔で同じものが出てくるはずですが、あとは基礎工事の中で立ち会って確認になる程度になるかもしれません。ひと つ気になったのは、同様の拳大の円礫が周囲にも表面に散乱していたことです。その石はもっと浅い位置に根固めとしてあったのかもしれません。

ちなみに天正12年に岩倉より当山が移ってくる前には、ここの場所には山内一豊家の菩提寺である日蓮宗・要法寺がかつてあった事実があります。その後長浜に要法寺が移った後に、岩倉より国照寺・蓮照寺・妙栄寺の3ケ寺が同時期にここにうつってきています。建物を解体した今こそ本格的調査するいいチャンスなのですが、解体作業の中で業者の方との連携でやっているので時間が現実にはとてもありません。

発掘地点より東側を撮影。本日、東側の妙栄寺様との境のブロック塀も撤去されました。

 

 

 

 

明日も追加で発掘作業して、最終確認とするそうです。

解体工事進捗との兼ね合いもありますが、このような調査の目的は埋蔵文化財は蓮照寺のものではなく、万民共有の財産という位置づけで行うそうです。学芸員の方に話を聞くと、県に確認記録を提出しなければならないそうです。

このような深い位置まで今回工事を行う計画がなかったら元々必要のない調査であったのですが(新本堂の下に埋蔵文化財があったとしても深い位置まで工事しなければ自然に保存されるため)、蓮照寺本堂の建築事業の中でも重要な意味を占めている調査と思います。今回の新築工事で内陣部分は深く掘って工事するため埋蔵物はあったとしてもすべて撤去になりますが、それ以外の部分に埋蔵文化財はあったとしたらそれは自然に保護されるわけです。そしていつか未来に深く掘削する工事を当山で行う日がきたらまた確認調査がされると思います。

現場監督さんは、工期の関係でヤキモキしてましたが。。。わたくしは興味津々なのでもっと本当は調査してもらってもよかったんですが・・・

ただし、もし本格調査となると施主(=お寺)持ちで調査費用負担が発生するというのが大変気になるところでした。←実は一番これが気になってました。

建築会社、解体業者、市の発掘調査学芸員、そしてお寺側(住職、檀家)とそれぞれの立場立場でいろんな思惑の違いが如実に出てくるところです。それぞれの範疇を超えてお互い協力しながら仕事ができる(やっていただく)ことの大切さを感じた今回の調査でした。