蓮照寺のご案内
住職からのメッセージ
心のよりどころ
この世は煩悩まみれ・・・蓮の花のように花を咲かせよう
現代社会は便利になったといっても、それゆえいろんな心の悩みや、本来の自分の見失ってしまいやすい社会なのではないでしょうか?
会社でもない、家でもないあたらしい第三の場所として皆さんの心のよりどころとなる場所になれば幸いです。
昨今、少子化や核家族化といった社会の変化にともない、自分たちのお墓を守る人がいないという方のご相談をたくさんいただくようになりました。立派なお墓があっても、 いずれ無縁墓となってしまうのでは、と不安をお感じになる方は少なくありません。
これからお墓を建てるか否かで悩んでいる方も増えています。
これまでのお墓は、将来にわたって家督相続していく「家制度」の前提に成り立っており、後継者がいらっしゃらない場合のことはあまり考えられていませんでした。ところが現代では跡継ぎのいない方が以前よりも増えつつあります。
そのような方が安心してお墓に入ることのできるよう建立されたお墓を永代供養墓といい、蓮照寺の永代供養墓「慈恩の塔」は住職が将来的にお墓守と供養をしていくものです。もちろんご家族、有縁の方のお墓参りもできます。
お寺というと「葬儀やお墓」といったイメージがありますが、葬祭や布教の場であるだけでなく、もともとは地域の方の様々な生活の悩みや心の拠り所、地域における教育や福祉、文化の拠点としての役割を担っていました。寺院離れが進んでいる現昨今、私は寺のあり方、役割の原点に立ち返り見直していきたいと考えています。お気軽に蓮照寺にお越しください。
皆様のご来寺を心よりお待ち申し上げております。
合掌
- 住職紹介
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東京で大手電機メーカーのエンジニアを13 年務めた後、実家のお寺を承継。全国から寄せられる身の上相談から婚活相談まで様々な相談を10 年以上にわたり受けている間に、いつしかWEBサイトの東京パワースポットの無料相談の上位で紹介されている。
電話相談の方や来寺される方の心が元気になるのが喜び。
現在一宮をITで元気にする「一宮を元気にする会」、「NPO法人みんなの介護の会」の理事として社会貢献活動に取り組んでいます。
蓮照寺の由緒
開山天正12 年(1584 年)
巡見街道と山内一豊公が駆け抜けた
歴史が交錯する
人の心により添い「一願成就」の
思いを今につなぐ
縁起
天正12 年(1584 年)の開山創立。寺伝によれば、もともと岩倉にあり、 永禄元年(1558 年)に織田信長の攻略により岩倉城が落城し敗軍側の山内盛豊(一豊の父)も戦死し城下は焼野原となった。当時岩倉城下にあった蓮照寺・国照寺・妙栄寺( 三ケ寺とも天台宗 賢林寺[ 現 小牧市藤島町] の末寺寺院であった) や町家の中には山内盛豊の従弟の浅井高政を頼って苅安賀城下に移り住んだ(これを岩倉越という)。 苅安賀城主より東端の地を与えられ、日蓮宗の苅安賀三ケ寺として同時期に開山。
天台宗から日蓮宗となった経緯は、この苅安賀三ケ寺の地にかつて山内一豊の菩提寺である要法寺(長禄2 年(1458 年)創建の日蓮宗寺院) があったことと少なからず関係するものと考えられている。
要法寺は山内一豊の転封の折、天正13 年(1585 年)に尾張国 苅安賀より近江国長浜( 現 滋賀県)、天正18 年(1590 年)に遠江国掛川( 静岡県) に移り、慶長5 年(1600 年) に土佐( 高知) に移転。
京都本山である妙顕寺第九世日芳の弟子である正乘院日惠上人は、当山蓮照寺を苅安賀に移転再興し開山。
旧本堂(平成26 年7 月をもって解体)は第十二世 本譲院日現上人代の宝暦6 年(1756 年)に建立(当時の棟札が現存)。
現在の鐘楼堂は第三十三世 唯精院日進上人代の昭和6 年に建立。
戦時中の金属供出令により梵鐘を国に供出させられたが、 戦後篤信の檀信徒の尽力により新たに梵鐘を鋳造し、第三十四世 宝龍院日温上人(現住職の祖父)代の昭和27 年に今の形に戻り、立教開宗七百年を記念し大法要を鐘楼にて執り行った。
現在の第三十七世住職 津島宝秀により平成22 年12 月 永代供養墓・納骨堂建立。
平成28 年10 月 宗祖日蓮聖人御降誕八百年を記念し新本堂・客殿の完成により落慶法要を執り行った。
年間行事
4月第1日曜日 | 永代経会 | 午後1時半より | 永代経過去帳にて供養。旧来は百人の僧侶でおつとめしたので百部経といいました。 |
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8月11日(山の日) | 盆施餓鬼会 | 午前8時より | お盆のお施餓鬼供養です。お盆にはご先祖様が帰ってこられますのでご家族で心をこめて供養しましょう。 |
11月第2土曜日 | 御会式 | 午前10時半より | 日蓮聖人の御命日に、日蓮宗伝統の団扇太鼓を皆さんでたたいて、お題目を唱える行を行っています。 |
12月31日 | 除夜の鐘 | 午後11時45分より | どなたでも参加できます。あたたかい飲み物もお出ししています。 |
毎月第1金曜日(他の曜日となる月もあり) | お経練習会 | 午後4時より | 初心者の方大歓迎です。申込不要、参加費無料です。 |
巡見街道と苅安賀
巡見街道とは、江戸時代に幕府が諸国の大名の監視と情勢調査のために派遣した巡見使が通った街道をさし、 この尾張近辺では、犬山から草井、瀬部、四ツ谷、苅安賀、萩原を経て津島に至る街道をさします。
一宮市の大和町苅安賀(旧中島郡苅安賀村)は、巡見街道にある戦国時代に栄えた歴史ある町です。
織田家の拠点の苅安賀城(現・苅安賀自動車学校)を背景に、尾張地方でも代表的集落でした。
江戸時代初期の文書によると当時の苅安賀村の家数は384戸、人口1541人に対し寺院数14。
一方、一宮村は490戸、2935人に対し寺院数14。この人口に対する寺院の多さが苅安賀の古くからの繁栄と信仰厚い土地柄を感じます。
蓮照寺と155号線を挟んだ向い側、「味淋屋」より南へ続く街道も妙興寺を通って名古屋へ向かう古往還でした(角を示す当時の石碑が今もあります)。
現在の尾西線 観音寺駅までの集落も苅安賀であり、お寺が今でも街道沿いに多くあります。
苅安賀は一宮・浅井へ向かう巡見街道と、名古屋へ向かう古往還の交わるところで交通の要衝でした。
今は155号線や高速道路でかつての村は大きく分断された形になっていますが、これも車社会となった時代の流れでしょうか。 旧街道沿いにも新築の家が増えています。
しかし、わずかに格子戸のある家や白壁造りの土蔵が残っている家もみられ(県の重要文化財となった旧家もあります)、その面影を感じることができます。